牛首紬の歴史


















  
 最近まで民家として
  使われていた家の囲炉裏






















     
手取川ダム


 伝説

平治の乱で敗れた源氏の落人が牛首に逃れて来て、その妻女が機織の技に優れており、村人に伝授したのが牛首紬の始まりと伝えられます。
 


 江戸時代

江戸時代でも特に文化・文政期(1806〜1822年)の頃は、各種の文献に牛首紬、嶋布、釘貫(くぎぬき)紬の名前が見られ、商品として全国に販売、珍重されていました。 


■ 明治から大正時代

明治から大正初期までは紬よりも麻織物の需要の方が圧倒的に多く、大正中期以後は逆に麻織物が激減し、紬生産が激増しました。

製糸業者から転向して紬織りを始めた
水上鶴吉が、大正12年頃、合資会社として「釘を抜く程強い釘抜紬」として本格的に販売し、牛首紬としての最盛期を迎えました。結城、大島、牛首が日本の3大紬と言われました。

          
 昭和時代

経済不況や太平洋戦争により、昭和初期をピークに牛首紬は次第に生産を縮小。
水上氏の廃業を最後に、本格的な紬生産の場は姿を消し、ただ
1軒、加藤三治郎氏だけが、家業の傍らで伝統の技術を残す事になりました。

1年にできる反物は約40反。それでも思うようにさばけなかったのですが、一家の「伝統を守る」決意は固く、細々と機織りが続けられました。加藤さん一家の紬に対する情熱があってこそ牛首紬の伝統が守られたと、昭和51年に加藤志ゅん氏に黄綬褒章が送られました。

「このままでは伝統の灯が消えてしまう」と危惧したのが西山産業の故・
西山鉄之助氏。土木業で蓄えた私財をなげうって牛首紬の生産に乗り出しました。

昭和38年に、桑畑を造成し養蚕に取り組み始め、翌年には水上氏から織物技術と「牛首紬」の商標を継承し、紬工場を建設。その4年後から本格的操業に入りました。
技術の伝承と見直しや、繭、水など素材の見直しを1から始め、自信を持って商品をだせるようになるまでの苦労は相当なものだったと言います。
  


 友禅との出会い

昭和30年代後半、牛首紬の産地が絶滅寸前の時期に、難局を救ったのが友禅との出会いでもあります。

牛首紬の素材の良さに魅せられた
京都西陣の会社社長が、牛首の白生地に加賀友禅や京友禅の技法を加えた商品の研究開発に着手しました。多くの困難を乗り越えて、数年後に格調高い染め付け(後染め)の牛首紬が誕生。

男性用の着物に染めたり、肩や裾に模様を入れて訪問着に仕立てたりして、それまで普段着であった紬からセミ・フォーマルな紬へとバリエーションを広げたのです。

白生地は通常、染色されると織物の産地でなく、染色業者のラベルに張り替えられるのが普通であるため、ほとんどの紬産地では白生地の生産は行っていません。しかし、牛首紬の白生地は、さまざまな染め技術を施しても、牛首紬の名で販売されているのが大きな特徴です。



 最大の危機・ダム建設

昭和49年に開始された手取川ダムの建設により、牛首紬を織る人々が多数入居する桑島地区235戸全戸が水没し、従事者の離散により紬の灯が消える恐れがでてきました。

この危機は、生活の糧ばかりか文化を失うことも意味し、マスコミを始め多くの人々の反対運動へとつながりました。
「紬の里を守ろう」との声が湧き上がり、村民175戸が山を下り、残りは村内の代替地に移住、従事者も白峰村
白峰と鶴来町に別れて移り住みましたが、再び手を取り合う体制作りがスタートしました。
 


 現況

昭和53年に、牛首紬技術保存会が設立され、保存会会員の生産する紬に限り、商品名を牛首紬とすることが決定されました。58年には石川県牛首紬生産振興協同組合が結成され、業界が一つにまとまりました。

59年には白峰に織りの資料館「
白山工房」が開設され、牛首紬の歴史、工程、特徴等を見学することができるようになりました。



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