「曾祖父の帯」の絵を観て
板橋区 高畠二三人
先日、目黒雅叙園美術館で昭和初期の日本画美人画展を観てきました。
昨今の西洋画展の絵を 観てるのか人の頭を見てるのかわからない美術展と違い本当に閑散としていました。
日本画に対するこの状況はまさに着物に対する一般の方の関心度を表わしているようです。 それでも何処かの和服姿のオバさまグループ8人程が「あら、お琴弾いてる絵よ。あなたお琴
弾いてる?」「あるけど飾ってるだけよ」などと大騒ぎで絵を観るよりオシャベリに夢中でそ のうちに係の人に注意され、そそくさと去って行き結局わたし一人になりました。
その展覧会 のチケットにも印刷されていたのが「ショウウィンドウの婦人たち」という絵です。
当時(昭和初期)画家が日本橋三越呉服部に閉店後かよって、自らモダンな着物を選びモデル を立たせ下絵を仕上げたとありました。
この絵のモデルとわたしの叔母がダブってわたしの古 い、懐かしい一時期の記憶を呼び覚ましました。
わたしの生まれは昭和30年、向島のちょっと上の鐘淵というところで、曾祖父が始めた炭屋で した。当時この江戸時代生まれの曾祖父はまだ健在でした。
炭屋を始めたのはなんでも若いこ ろ博打で日本中をまわり稼いだ金(曾祖父は銭と言っていました)で始めたそうです。 孫やひ孫の大家族の中でこわい顏して鎮座していたのを今でもよく覚えています。口数が極端
に少なく、やること成すことわたしには不思議に見えました。
着物もめちゃくちゃな着方で火 鉢の上にまたがり、褌が見えてもおかまいなしでした。
そんな中で若い叔父や叔母にかこまれ てわたしは育ちました。
叔父叔母たちは明るくチャキチャキしていました。
その中の一人の若 い叔母は日本橋の三越に勤めていたのが当時自慢でした。
今でいえばスチュアーデスってとこ ろでしょうか。美人で家柄(?)が良くなければ日本橋三越には勤められなかった様です。
でもわたしにとっての叔父叔母は兄と姉のようで忙しい両親にかわってわたしをかわいがって くれました。言葉を教えたのはこの人達でしたから、その後両親と兄とで板橋区に引っ越した
時まわりの子供達の話し言葉にむやみに腹が立ちました。
わたしの言葉が変だというのです。 当時彼等の親たちも地方から来た人が多く、勝手に自分の言葉が正しいと想っていたのです。
わたしが和服を初めて着たのはこの曾祖父の家ででした。当時あたり前だったのですが下着が サラシの生地でできていました。
金太郎はらまきの上に単衣のサラシの半襦袢を着て一日中過 ごしていました。
半襦袢が和服かどうかわかりませんが、その着心地のよさは今でも忘れられ ません。
脱ぐのもヒモをひっぱってパラリですから着替えもらくらくでした。
ただしその下前 のヒモは襦袢のどこかの穴を通して上前のヒモと結ぶので、幼いわたしには自分で着ることは できなかったのですが。
生活の雰囲気がえらく気楽でじいちゃん(曾祖父)の銭箱にはいつも パラパラと小銭が入っていて、紙芝居屋がくればいつもそこからわたしに小銭を一枚くれまし
た。
曾祖父と共に曾祖母もいたのですが、こちらはいつの生まれだかまったく分かりませんが やはり慶応か明治の始めだとおもいます。
寡黙というよりまったく言葉を聞いた記憶がないの です。
いつも地味な縞の丹前を着ていました。髪型は、今おもえば銀杏返しのつもりだと思い ますが髪の量が少ないので貧弱に見えました。とにかく今思えば、生きた文化遺産のような曾
祖父と曾祖母(こちらはしゃべりませんが)からもっと江戸から明治、大正の生活の雰囲気な ど聞いておけばよかったと思います。
しかし板橋区に引っ越したのちは、ちょうど時代の変わり目とでもいうのでしょうか所得倍増 計画とかいって電化製品が家に入り込んできた時代で、わたしのヒモの襦袢はピタピタに体に
はり付くTシャツとブリーフになってしまいました。
嫌ーな感じがしたのをよく覚えています。 わたしにとっての着物とはただ形ではなく、サラシの感触と炭の匂い、迷路のような露地を鼻 をたらしながら駆けまわった時への憧れです。
鮭が産まれた川に戻るようにわたしもそこに戻 りたいのです。引っ越さなければこのような心境にはならなかったでしょう。
その曾祖父の炭屋は火事で燃え、いまはありません。当時を思い出させるものは曾祖父のまた がった銅の火鉢と擦り切れてしまっている縞の長着と博多の帯が一本あるだけです。
帯には 手先の折り痕がいまでも残っていて、その折りに合わせてわたしもこの帯を締めています。 三越の叔母は母にとって自慢の妹で、今も一番仲がいいのですが今でもわたしの名フミヒトを
言えずフミシト(小さい頃は自分でもそう思っていました)と呼んでくれています。
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